昨日は福祉講座のカリキュラムの中で、マトさん(ADHD当事者でもあり、訪問看護ステーションで作業療法士をされている)に特性との付き合い方や訪問看護について伺いました。


ご本人さんにも承諾をいただき、アップさせていただきます。

以下、エピソードです

 僕はいわゆる進学校に通っていた。ぎりぎりまで頑張っていたが、爆発する感じで高校3年生の夏にやめた。神経症的な症状も出て家庭内暴力なんかもあった。最終的には僕だけが家に残った。自分探しをするために大学に進学するもこれも中退。引きこもったり自問自答の日々もあったりしたが、22歳の時に好きな女性と付き合うようになり、どうやって稼いでいくかについていろいろと考えた。問題なく取り組めたバイトもあったが、スシローでバイトをした時にミスが多く、うまくいかなかった。自分でも少し知識があったがその時はADHD的な特性であることはなかなか認められなかった。


収入の安定を考えて、看護師になろうと思った。看護助手から看護師を目指せば、看護学校などの費用はある程度まかなえることを考えて看護助手になるもこれもミスが目立つ。この辺りから自分自身のADHD的な特性があることを認められるようになってきたと思う。


病棟の中で作業療法士の先生がお年寄りと手作業や音楽などをやっているところも見て。

『これならば速さにとらわれずリカバリーしながらできる』と思い、26歳頃だったと思うけどお金を借りて、作業療法士の学校に入学した。きっちりと授業に出るタイプではなかったけど課題などの範囲を聞いて取り組んだり、提出物などの小さなメモを持ち歩き、そこに書き込んだ。今まで神経症的な症状で苦しんできたところもあったが、今回は自分で決めたことや失敗できないという思いがADHD的な「ミスをしやすい」「先送り癖」ではなく、神経症的なところがバランスよく働き、卒業して資格を取ることができた


精神科の作業療法士になろうと思ったが、体をみれる作業療法士になりたいと思って、まずは一般科の病院や社会福祉法人で勤めた。GH(グループホーム)の勤務時「内服の補助・薬の管理」を忘れそうになるが、この仕事はここがポイントと思ったことは抜けてはまずいと思い工夫した。どの仕事でも「絶対にきっちり」と「そこまできっちりでなくてもいい」みたいなところがあるので、意識して取り組むようになった。そうすれば大体の仕事はうまくいくと気が付けた。


そこからも紆余曲折有。発達障害の2次障害的にガンにもなった。トイレの近くでしか過ごせないこともあったが、だんだんと回復していた。今は就労移行の週5日で通っている方の中の一番下くらいの体力ですと笑って答えてくれる。この時も稼がないとだめだけど、体力もない。効率よく働くことや年金なども含めて考えることが増えた。


今の仕事は訪問看護ステーションで勤務している。東は尼崎、西は三宮くらいまでの方をフォローアップしている。


医療行為だけでなく、その人に必要なことであれば学校に掛け合い配慮事項を求めたりしていた。無料でしていたので今後は福祉事業所との連携にて実施している


転職等の相談の時には就労移行などを使えないケースなどでは、訪問しながらやれるサポートをやっていった。やりがいもあるけど移動の距離も有、できることの限界も感じている。発達障害のあるお子さんの育児を一緒にお母さんとやっているような時もある。相手に合わせて取り組むことでやりがいも感じている。


自分自身もAC依存症などの自助会、発達障害などのグループにも参加することが多かったので、GAGAムーンという団体で自分でも行っている。月末当たりの金曜の夜が多く、西宮の福祉センターなどを使うことが多かったが、コロナ禍になりzoomを使ったり最近はTwitterのスペースを使ことが増えた。


年に1~2回、しあわせの村でキャンプみたいなこともやっている。BBQや泊って過ごすことなんかも企画している。コロナが落ち着いていれば今年もGWくらいに実施できればと思っている


マトさん、Twitter

https://twitter.com/masa0929mato