アンカー神戸三宮ブログ

障がい者就労移行支援施設アンカー神戸三宮のブログです。 授業内容等、活動内容を随時アップさせて頂きます。

カテゴリ: カリキュラム

特例子会社でデザイン職で働いているエリコさんにオンラインで話してもらっています

今回の話の音声です

stand FM①
stand FM②

〇自己紹介、30代の女性。

・大人になってから職場等でうまく行かないことが多々あった。
電話対応が苦手で、大事なお客さんの電話もセールスの電話も
その区別があまりつかず、誰につないでいいのかの判断ができず、
誰かに聞くということもできず、「とりあえず誰かにつないでしまおう」と思ってつないだところ
「こんな電話はつながなくていい」と怒られるときなどもあった

職場でのうまく行かないことは、基本的にコミュニケーション系のことが多く
通販サイトの運営の仕事をしている時に製作会社と社内の人の間で話すことがあった。
誰かに打ち合わせしたことを伝えたり、2者間の間に立ってやり取りすると伝え漏れなどもあった。あなたを通すとうまく行かない」と言われてしまったこともあった

診断名はASD(自閉症スペクトラム障害)学生の時は勉強は嫌いではなかったがいわゆる女子トークが苦手でその場で話を聞いているだけで、休み時間の過ごし方がよく分からなかった
授業などはやることが決まってる場面のほうが楽だった
話す中で工夫しているのは、『話しすぎないようにしている』『事前に準備して話すことをテキストにしている』実は今日も準備していたが、簡潔に伝えたほうがいいかなと思って短めにしたという感じでやってみた。

自分の持病として関節リウマチがあり、ストレスがかかり症状が悪くなった時もあった。少し関節が変形しているところもあるが、タイピングの時に少し引っかかるが、業務的にはやっていけている。特に配慮事項としては伝えていない。



〇就職についての取り組み
在職中に大手の障がい者雇用のエージェントには登録したり、デザインなどに特化しているところにも登録して、自分の障害特性の事なども相談していた。空いた時間に就労移行などもたくさん見学などした。仕事を決めるまでの期間は半年くらいだった。早く決まった要因は危機感を持って取り組めていたり、正社員でデザイン職ということを決めていたことも有効だったと思う

・これからの人に向けての所では自分の特性の分析で「仕事とかで失敗したことを書き留めて、それを分類すること」を続けていた。そのことを面接で伝えると評価されたと思う。
→今の会社でも電話は1次受け程度になっている。同じ障がい者雇用でも電話に出ているのは一部の人だけであり、電話の受け答えについては配慮されている

・今の職場の周りの人のスキルは、イラストレーターとかフォトショップなどは難なく使える人が今の職場でも多い。使えて当然というところもある。経験者を採用している+webデザインができる。動画編集ができるみたいな人が多いと思う。資格があると有利というより、その知識などが仕事に活かされるところがあり、会社としても資格取得の金銭補助をしているところもある
自主的に学べる人は求められているように思う

・採用のフローとしては
書類審査(履歴書、職務経歴書、ポートフォーリオ)→1次面接→2次面接や1日実習なども検討されていたが、入社のタイミングがコロナ禍だったので、実際はオンラインの面談で入社するまで会社の人に会うことはなかった。

・ポートフォーリオについては、メールに添付したりストレージで共有などをして見てもらった。仕事で作ったものが一番見られている評価されている気がした
色々なジャンルやデジタルアナログに限らずできること、バナーや名刺など器用貧乏な一面があり、イラストについては相手に合わせてできるところなどもあり、そういう部分は評価されると思う



〇今の状況等(経済的な事や入社してからの変化など)
経済的なところは、前職では一人暮らしはできるけど、貯金はできないくらいの感じで給与は手取り10万円半ばくらいだったけど、今の会社に勤めるようになって貯金もできるようになった。パートナーと同居しながら生活している。

・会社の休みについては、事前に通院などで休むことなどは嫌な顔をされることはない。
有給も取りやすい仕組みにはなっている。事前の休みは私用等でも寛容な感じがある。
ただ、当日の朝に遅刻や休むみたいなところはクローズ就労の時より見られている感じで精神や発達の方の勤務が多く、会社もそのあたりをしっかり見られている気がする。急な休みがあると「会社側からの評価が下がる」感じもある

・会社内でのコミュニケーションは
入社時は個人主義でやっている感じだったけど、今は少し難があるなぁという方がいて、それぞれのスタッフ間で会議や打ち合わせなどが増えてくると挨拶もしないような人もいて、結局退職となった。コミュニケーション力も求められるところもある
自分のこだわりを通そうとしてしまう人は難しいかもしれない、自分が作ったものを「なんでこうなるんですか?!」と攻撃性があるような人は不向きなのかも。


〇質疑応答など
面接面ではスキルもあるが、特性の分析や対策を一番言われた気がする。電話のことでチェックリストを作ったりマニュアルを作ったりしていること伝えた。
web面接だったので、カメラの前で自己対処できることなどを伝えられた

・体調の管理、ストレス対処について聞かれた。
安定して働けるかどうか見られている気がする。
自分自身はロードバイクに乗ることが好きで長い休みの時にはよく行っていた
そのあたりのエピソードをはなした、運動をやっていることは受けもいいのかと思う実際働いている人も趣味がある人が多い気がする。

・スキルについては、広く浅くでOKであると思う。
親会社の依頼で色々な依頼が来るので、外部でないのでとがった要求をされることが少ない。例えばこれがデザイン事務所であればとがったものがあるのかもしれない。どんな依頼が来ても対応できる感じがいいと思う。

・今の仕事に向いている人のイメージは?
→本当に絵をかいたり、デザインするのが好きな人が向いている。暇があったら、ついついやっているような芯がある人は、製作するときに自分で調べて取り組める。壁にぶち当たっても取り組める。
就職するののに有利だからイラストレータ学ぼうという感じより、好きだからやっている人のほうが適性があると思う

・お客さんなどの提案やヒアリングなど売り込む場面があるのか?
→人によってはデザインではなく文章を書く感じの人。直接打合せすることはあるが、自分が主導してという事はあまりなく、上司に同行させてもらう事がある感じ。作品を作る途中でチャット等でやり取りをしながら作っていく感じになっている。(teamsなどで)仕事としては割り振られたことをやっている感じ。将来的には売り込みに行くようなこともあるのかもしれない。


・勤務時間は、7時間のフル勤務(お昼に1時間の休憩あり)8時くらいに家を出て、9時前に会社につく感じでやっている。週に1回は在宅で勤務してくださいと言われているので、週1日は在宅で勤務している
有給は最初に10日くらいあった。時短勤務をしている人はいないが、育児休暇明けであったり、休職して復職勤務の場合などはあるのかもしれない。そういう制度はある。フルタイム推奨のイメージが近いのかもしれない

・個人的には障がい者手帳を取って、オープン就労して良かった
個人的なところであるがデメリットは一つもなかった

今の会社を辞めた時にクローズ就労に戻れるのかということは少し気になっているときもある




先日は稲岡さんにお越しいただいて
色々と話を聞いています

『今の症状とか』

摂食障害、まだまだある。
ストレスがかかると過食嘔吐につながるときもある
そんな時は休むようにしている。
自分の中では寛解(かんかい)と捉えている。

双極性障害、やりすぎて倒れるパターンがほとんどで
3
か月働くと1週間寝込むみたいなパターン
社長にも相談して休むようになった。
昨年より波のコントロールができるようになった

ADHD
、今日もあった()
家を出る時に火の元、ヘアアイロンとか
色々チェックするけど、何か忘れたり傘とか
お土産とかをどこかに置き忘れることも
スマホどこか行ったとか、結構ある

『きっかけ』

摂食障害のきっかけは中学生の時、テニス部を辞めたあたり
から太りだして、周りの男子の反応が変わりだした。
そのころから雑誌の裏とかに乗っているようなものも含めて
無理なダイエットを繰り返すことになった。

大学の受験の時などの勉強などもすごくムラがあって
0か100かみたいな感じで正月も全く勉強しないとか
急に13時間くらい1日勉強したりみたいな感じだった。

大学に進学したが、3年生の時に人から太ったといわれるのが怖くて
半年間休学した。半年遅れて卒業した。

20
代はほとんどの状態で仕事人間だった
民間企業で営業を数年した後、保険会社に勤めることになったが、
ノルマ等もきつくて、自分自身でもつぶれてしまい
会社の人に勧められる形でメンタルクリニックを受診した。
気分の波は自覚していたので、双極性障害という診断にその時はホッとした。

6~7年前が一番太っている時期で70㎏くらいまで太ってしまった。
以前教会に通っており、会っていない人と再会するために頑張って痩せてみた

手帳は会社から頼まれたので、取った。
取得してから、最初はホッとしたけど、数か月でものすごく落ち込んだ
自分が「劣等人間だ。」「自分は守られるほうの人間だ」と思った
毎日死にたいと思った。回復するのに数年かかった
その時はA型の支援員をしていた「リーマス」を飲みながら
勤務していた。50%くらいの力しか出せず。
太って仕方ないし、自分からは死ねないし、何にも楽しくなかった
でも、仕事には這いつくばって、行っていた。


福祉の業界に入ることも考えていなかった。
50
%の力でもできると気づけた。
必死に支援員をしていた。当時は弱音も吐けなかったけど
今の職場では出せるようになった。


自分の元気になったきっかけは
二人の利用者さん、
ダンスがうまく踊れる難聴と知的障害の男性
友人が多くてUSJに行ったり、

毎日楽しんでいるペースメーカーを付けている知的障害の女性


音もほとんど聞こえないのに県とかの大会で優勝を繰り返したり
お金も限られた中で生き生きと楽しんでいるのを見て衝撃をうけた。

自分の障害を自分のすべてととらえていない
動くことできることで勝負している。人生を謳歌しているところみて
『良いやんできることで勝負しよう。自分は何をやりたいんやろう』と思って
歌うことを始めた。

ゆめ


standFM
で「夢」を聞くことができます

https://stand.fm/episodes/6308340df9b7e86d55046e62


みんなから好かれようと思っていたけど
「全員からは好かれない」と仕事の中で気が付けた
「雨が降ることを止められないように
嫌われる勇気を持つのも大切か」と思った。

hyougennsitemiyou

standFMで「自由に表現してみよう」を聞くことができます


https://stand.fm/episodes/63088468553a03be480223b6


『働く業界を変えた変化』

保険会社から福祉の仕事をして
給与が保険会社と比べて給料が下がって、
自分史上「最低」だった

以前の職場は給与も多かったが、その分ストレス過多で過食嘔吐で結構お金を使ってしまった。
大学時代から寛解するまで摂食障害で700万円ほど使ってしまってた。
福祉に来てから、過食嘔吐の行為は減った。
処遇は変わったけど、よかった。

どろどろとした世界が自分は苦手だと気が付いて
福祉の仕事で癒された感じがあった。(福祉でもどろどろはありますが、、、)



『福祉の仕事』
優しすぎてはできない。やることは利用者さんのことを考えると
きりがないところもある。優しすぎるとやりすぎる。
やりすぎると倒れる。そのあたりを自分でセルフケアすることも
会社を出ると考えない。youtubeとかもやっているけど無理して配信しない
ようにしている。


『父親との関係』
間違いなくASDの人だと思った。変わっている人()
家族の中でいろいろあったけど、保険会社で勤めているときに保険に入ってくれたり
カードローンの時も助けてくれたりした。3年ほど前に急に亡くなった。
その時にやりたいと思ったときにやりなさいというメッセージを
もらえた気がして、「やりたいと思ったらやろうと思った」


『配信活動とか』
配信のきっかけは摂食障害の方のyoutubeを見て
回復した。自分の自己記録と、見ている人も元気になればと
思った。
周りの見ている人の目を気にするときもあったけど
「自分はアイドルではないし」と気にしなくなったから
4
年続いたのかもしれない。
自分主体で行かないと楽しめない。
無理はしないと思っている。
相手の期待に沿うことがやりたいことではない。
離れていく人は仕方ないととらえている


『将来』
最近、ずっと老後働けないことも考えて、資産運用の情報や勉強をしている。
引っ越しして安い家賃のところに住もうかと思っている。
そういうことを考えられる自分に感動している。
節約もしつつ、目の前のことをしたい。
今の目の前のことをやっていたら、次の何かがやってくる
これがしたいという夢ではなく、一生懸命目の前のことに取り組んでいこうと思っている

発達障害を持ちながらも楽しく工夫をしながら生きることを
youtubeを使って発信しているあやかさんのインタビューを行っています

ayaka


大学を卒業後に営業職から事務職に転職をしたものの
仕事ができず、自分を責めてしまいうつ状態になる
25歳ごろに診察を受けてADHDと診断され、その2次障害で
うつになっていたことが分かった。

生活リズムがバラバラであり、寝てばかりいたけれど
母親から起こされて行動することで改善するきっかけになった
そこから、発達障害の相談窓口に行くようになり
自分の取説を作り、向いている営業や企画の仕事をすることになった
今年の1月に国際結婚をして、3月に今までの仕事は退職をした



発達障害についてはどうわかってもらうか?
身内からも周りからも中々分かってもらえず、今も悩んでいるところもある
理解はしてもらえなくてもいいから、生きづらい事実があることを受け入れてほしい
と伝えるようにしている
自分自身も「なんで理解してくれないの?」と周りの自分の思いを強要しないようにと思っている。

吉濱ツトムさんの考え方が好きでいろいろな発信をしてる方で
発達障害を持っている人のことを「発達障害人」と表現していて

「一般の定型人」と「発達障害人」に文化交流と私は思っている。
違いがあるけど文化の違いと思う。多数派の「定型発達人」が作った社会では
少数派の「発達障害人」が生きづらいように思う

私は切り替えが早く、忘れやすい。
良いことも悪いこともすぐ忘れる。
人間関係でごたごたしてもすぐに忘れてしまい、許してしまう
周りから見たら「えー!」ってなっていることも多い

説明をするときはなるべく具体的に話すようにしている



発達障害を自分がどう受け入れるか
ADHDがわかってから、半年後に営業とか企画の仕事にうつる
車の運転が特性上できなかったけど、自分なりに工夫をする中で
少しずつ成果が見えるようになってきた。定型発達人が出せない
成果が出せるようになった。「私ってできるところがある」といいところに
目が向くようになった。「成功体験」が大切で
日常生活で料理がうまくできたくらいのことでどや顔することでもOK

忘れやすい特性もあるので、やったもん勝ちで取り組んだり
成功体験などもメモを取ったりすることも有効に思っている
トイレ掃除が有効でうつ状態の時の回復に役立った
磨く作業は心を磨くようにも思う

しんどい時もあったけど、元気に明るく過ごせているのは
すべては感謝につながっているように思う
発達障害に生まれてきたことは、選ばれたのではないのか
と思いだした。少数派だから見える社会があると思えてきた
でも、自分にも波が大きくあるけど軸ができた
しんどいこともあるけど、すべては捉え方だと思っている


発達障害との付き合い方
・工夫、壁にぶちあたった時に常に考えていくようにしている。どんなことでもメモを書く、習慣化するようにしている。定型人に比べてストレスにさらされやすいので

・自分軸を持つこと、定型人から「これは違うよ」といわれることもあるけど、周りに合わせるばかりでモヤモヤすることは選ばない。自分の心に聞いてみてワクワクすることは行っている。
仕事になれば、郷に入れば郷に従う感じで「定型人のほうに合わせる」ことも大切で誰かに迷惑をかけたりするならば、自分を守るためには異文化交流で外国に住んでいるという感覚も大切

・人間関係のこと、自分が思ったことを「ポン」と話し過ぎてトラブルになることもある。なるべく慎重にもやもやはするけど引き受けて、相手がどう思うかを勉強している。これは実際に試すしかない。

・薬について、ストラテラを飲んでいる。吐き気の副作用もある。活性化したときは眠れなくなるので、うまく使っている。気になることはクリニックに言ったり相談窓口で話すこともある


日々日々葛藤している。悩むことも多い。生きづらいことを抱えているけど
捉え方を変えるようにしている


これからの目標
企業も障害枠で人を雇っているけど、的外れなところもある気がする
当事者から声を挙げていきたい。発信を続けていきたい
スイミーのごとく、小さな魚が集まって大きなことのきっかけになれば



吉濱ツトムさんのHP

https://yoshihama-tsutomu.com/message/


体験談音声・前半

https://stand.fm/episodes/62d03198cd51733c677065d8

体験談音声・後半

https://stand.fm/episodes/62d03278f35042bb14b69dd6


あやかさんyoutube

https://www.youtube.com/channel/UCfYI0kjoCmmXDIZ50TveTKA



アンカーでのカリキュラムやたわいもない出来事などを
Twitterを通じて発信できればと考えています

当日や翌日のカリキュラムや
スペース(音声SNS等を使った交流など)の利用に使っていければと
思っています。

また気になることがあれば、お知らせください

annka- tuitta-


「アンカー神戸三宮」「@IXijrD6MXZrhz4l」等で検索ください。

お試し等でスペースなどの機能を現メンバー、OBなどを通じて取り組めたらと思っているので
良ければフォローください。

昨日は福祉講座のカリキュラムの中で、マトさん(ADHD当事者でもあり、訪問看護ステーションで作業療法士をされている)に特性との付き合い方や訪問看護について伺いました。


ご本人さんにも承諾をいただき、アップさせていただきます。

以下、エピソードです

 僕はいわゆる進学校に通っていた。ぎりぎりまで頑張っていたが、爆発する感じで高校3年生の夏にやめた。神経症的な症状も出て家庭内暴力なんかもあった。最終的には僕だけが家に残った。自分探しをするために大学に進学するもこれも中退。引きこもったり自問自答の日々もあったりしたが、22歳の時に好きな女性と付き合うようになり、どうやって稼いでいくかについていろいろと考えた。問題なく取り組めたバイトもあったが、スシローでバイトをした時にミスが多く、うまくいかなかった。自分でも少し知識があったがその時はADHD的な特性であることはなかなか認められなかった。


収入の安定を考えて、看護師になろうと思った。看護助手から看護師を目指せば、看護学校などの費用はある程度まかなえることを考えて看護助手になるもこれもミスが目立つ。この辺りから自分自身のADHD的な特性があることを認められるようになってきたと思う。


病棟の中で作業療法士の先生がお年寄りと手作業や音楽などをやっているところも見て。

『これならば速さにとらわれずリカバリーしながらできる』と思い、26歳頃だったと思うけどお金を借りて、作業療法士の学校に入学した。きっちりと授業に出るタイプではなかったけど課題などの範囲を聞いて取り組んだり、提出物などの小さなメモを持ち歩き、そこに書き込んだ。今まで神経症的な症状で苦しんできたところもあったが、今回は自分で決めたことや失敗できないという思いがADHD的な「ミスをしやすい」「先送り癖」ではなく、神経症的なところがバランスよく働き、卒業して資格を取ることができた


精神科の作業療法士になろうと思ったが、体をみれる作業療法士になりたいと思って、まずは一般科の病院や社会福祉法人で勤めた。GH(グループホーム)の勤務時「内服の補助・薬の管理」を忘れそうになるが、この仕事はここがポイントと思ったことは抜けてはまずいと思い工夫した。どの仕事でも「絶対にきっちり」と「そこまできっちりでなくてもいい」みたいなところがあるので、意識して取り組むようになった。そうすれば大体の仕事はうまくいくと気が付けた。


そこからも紆余曲折有。発達障害の2次障害的にガンにもなった。トイレの近くでしか過ごせないこともあったが、だんだんと回復していた。今は就労移行の週5日で通っている方の中の一番下くらいの体力ですと笑って答えてくれる。この時も稼がないとだめだけど、体力もない。効率よく働くことや年金なども含めて考えることが増えた。


今の仕事は訪問看護ステーションで勤務している。東は尼崎、西は三宮くらいまでの方をフォローアップしている。


医療行為だけでなく、その人に必要なことであれば学校に掛け合い配慮事項を求めたりしていた。無料でしていたので今後は福祉事業所との連携にて実施している


転職等の相談の時には就労移行などを使えないケースなどでは、訪問しながらやれるサポートをやっていった。やりがいもあるけど移動の距離も有、できることの限界も感じている。発達障害のあるお子さんの育児を一緒にお母さんとやっているような時もある。相手に合わせて取り組むことでやりがいも感じている。


自分自身もAC依存症などの自助会、発達障害などのグループにも参加することが多かったので、GAGAムーンという団体で自分でも行っている。月末当たりの金曜の夜が多く、西宮の福祉センターなどを使うことが多かったが、コロナ禍になりzoomを使ったり最近はTwitterのスペースを使ことが増えた。


年に1~2回、しあわせの村でキャンプみたいなこともやっている。BBQや泊って過ごすことなんかも企画している。コロナが落ち着いていれば今年もGWくらいに実施できればと思っている


マトさん、Twitter

https://twitter.com/masa0929mato

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