アンカー神戸三宮ブログ

障がい者就労移行支援施設アンカー神戸三宮のブログです。 授業内容等、活動内容を随時アップさせて頂きます。

タグ:ADHD体験談

先日は稲岡さんにお越しいただいて
色々と話を聞いています

『今の症状とか』

摂食障害、まだまだある。
ストレスがかかると過食嘔吐につながるときもある
そんな時は休むようにしている。
自分の中では寛解(かんかい)と捉えている。

双極性障害、やりすぎて倒れるパターンがほとんどで
3
か月働くと1週間寝込むみたいなパターン
社長にも相談して休むようになった。
昨年より波のコントロールができるようになった

ADHD
、今日もあった()
家を出る時に火の元、ヘアアイロンとか
色々チェックするけど、何か忘れたり傘とか
お土産とかをどこかに置き忘れることも
スマホどこか行ったとか、結構ある

『きっかけ』

摂食障害のきっかけは中学生の時、テニス部を辞めたあたり
から太りだして、周りの男子の反応が変わりだした。
そのころから雑誌の裏とかに乗っているようなものも含めて
無理なダイエットを繰り返すことになった。

大学の受験の時などの勉強などもすごくムラがあって
0か100かみたいな感じで正月も全く勉強しないとか
急に13時間くらい1日勉強したりみたいな感じだった。

大学に進学したが、3年生の時に人から太ったといわれるのが怖くて
半年間休学した。半年遅れて卒業した。

20
代はほとんどの状態で仕事人間だった
民間企業で営業を数年した後、保険会社に勤めることになったが、
ノルマ等もきつくて、自分自身でもつぶれてしまい
会社の人に勧められる形でメンタルクリニックを受診した。
気分の波は自覚していたので、双極性障害という診断にその時はホッとした。

6~7年前が一番太っている時期で70㎏くらいまで太ってしまった。
以前教会に通っており、会っていない人と再会するために頑張って痩せてみた

手帳は会社から頼まれたので、取った。
取得してから、最初はホッとしたけど、数か月でものすごく落ち込んだ
自分が「劣等人間だ。」「自分は守られるほうの人間だ」と思った
毎日死にたいと思った。回復するのに数年かかった
その時はA型の支援員をしていた「リーマス」を飲みながら
勤務していた。50%くらいの力しか出せず。
太って仕方ないし、自分からは死ねないし、何にも楽しくなかった
でも、仕事には這いつくばって、行っていた。


福祉の業界に入ることも考えていなかった。
50
%の力でもできると気づけた。
必死に支援員をしていた。当時は弱音も吐けなかったけど
今の職場では出せるようになった。


自分の元気になったきっかけは
二人の利用者さん、
ダンスがうまく踊れる難聴と知的障害の男性
友人が多くてUSJに行ったり、

毎日楽しんでいるペースメーカーを付けている知的障害の女性


音もほとんど聞こえないのに県とかの大会で優勝を繰り返したり
お金も限られた中で生き生きと楽しんでいるのを見て衝撃をうけた。

自分の障害を自分のすべてととらえていない
動くことできることで勝負している。人生を謳歌しているところみて
『良いやんできることで勝負しよう。自分は何をやりたいんやろう』と思って
歌うことを始めた。

ゆめ


standFM
で「夢」を聞くことができます

https://stand.fm/episodes/6308340df9b7e86d55046e62


みんなから好かれようと思っていたけど
「全員からは好かれない」と仕事の中で気が付けた
「雨が降ることを止められないように
嫌われる勇気を持つのも大切か」と思った。

hyougennsitemiyou

standFMで「自由に表現してみよう」を聞くことができます


https://stand.fm/episodes/63088468553a03be480223b6


『働く業界を変えた変化』

保険会社から福祉の仕事をして
給与が保険会社と比べて給料が下がって、
自分史上「最低」だった

以前の職場は給与も多かったが、その分ストレス過多で過食嘔吐で結構お金を使ってしまった。
大学時代から寛解するまで摂食障害で700万円ほど使ってしまってた。
福祉に来てから、過食嘔吐の行為は減った。
処遇は変わったけど、よかった。

どろどろとした世界が自分は苦手だと気が付いて
福祉の仕事で癒された感じがあった。(福祉でもどろどろはありますが、、、)



『福祉の仕事』
優しすぎてはできない。やることは利用者さんのことを考えると
きりがないところもある。優しすぎるとやりすぎる。
やりすぎると倒れる。そのあたりを自分でセルフケアすることも
会社を出ると考えない。youtubeとかもやっているけど無理して配信しない
ようにしている。


『父親との関係』
間違いなくASDの人だと思った。変わっている人()
家族の中でいろいろあったけど、保険会社で勤めているときに保険に入ってくれたり
カードローンの時も助けてくれたりした。3年ほど前に急に亡くなった。
その時にやりたいと思ったときにやりなさいというメッセージを
もらえた気がして、「やりたいと思ったらやろうと思った」


『配信活動とか』
配信のきっかけは摂食障害の方のyoutubeを見て
回復した。自分の自己記録と、見ている人も元気になればと
思った。
周りの見ている人の目を気にするときもあったけど
「自分はアイドルではないし」と気にしなくなったから
4
年続いたのかもしれない。
自分主体で行かないと楽しめない。
無理はしないと思っている。
相手の期待に沿うことがやりたいことではない。
離れていく人は仕方ないととらえている


『将来』
最近、ずっと老後働けないことも考えて、資産運用の情報や勉強をしている。
引っ越しして安い家賃のところに住もうかと思っている。
そういうことを考えられる自分に感動している。
節約もしつつ、目の前のことをしたい。
今の目の前のことをやっていたら、次の何かがやってくる
これがしたいという夢ではなく、一生懸命目の前のことに取り組んでいこうと思っている

発達障害を持ちながらも楽しく工夫をしながら生きることを
youtubeを使って発信しているあやかさんのインタビューを行っています

ayaka


大学を卒業後に営業職から事務職に転職をしたものの
仕事ができず、自分を責めてしまいうつ状態になる
25歳ごろに診察を受けてADHDと診断され、その2次障害で
うつになっていたことが分かった。

生活リズムがバラバラであり、寝てばかりいたけれど
母親から起こされて行動することで改善するきっかけになった
そこから、発達障害の相談窓口に行くようになり
自分の取説を作り、向いている営業や企画の仕事をすることになった
今年の1月に国際結婚をして、3月に今までの仕事は退職をした



発達障害についてはどうわかってもらうか?
身内からも周りからも中々分かってもらえず、今も悩んでいるところもある
理解はしてもらえなくてもいいから、生きづらい事実があることを受け入れてほしい
と伝えるようにしている
自分自身も「なんで理解してくれないの?」と周りの自分の思いを強要しないようにと思っている。

吉濱ツトムさんの考え方が好きでいろいろな発信をしてる方で
発達障害を持っている人のことを「発達障害人」と表現していて

「一般の定型人」と「発達障害人」に文化交流と私は思っている。
違いがあるけど文化の違いと思う。多数派の「定型発達人」が作った社会では
少数派の「発達障害人」が生きづらいように思う

私は切り替えが早く、忘れやすい。
良いことも悪いこともすぐ忘れる。
人間関係でごたごたしてもすぐに忘れてしまい、許してしまう
周りから見たら「えー!」ってなっていることも多い

説明をするときはなるべく具体的に話すようにしている



発達障害を自分がどう受け入れるか
ADHDがわかってから、半年後に営業とか企画の仕事にうつる
車の運転が特性上できなかったけど、自分なりに工夫をする中で
少しずつ成果が見えるようになってきた。定型発達人が出せない
成果が出せるようになった。「私ってできるところがある」といいところに
目が向くようになった。「成功体験」が大切で
日常生活で料理がうまくできたくらいのことでどや顔することでもOK

忘れやすい特性もあるので、やったもん勝ちで取り組んだり
成功体験などもメモを取ったりすることも有効に思っている
トイレ掃除が有効でうつ状態の時の回復に役立った
磨く作業は心を磨くようにも思う

しんどい時もあったけど、元気に明るく過ごせているのは
すべては感謝につながっているように思う
発達障害に生まれてきたことは、選ばれたのではないのか
と思いだした。少数派だから見える社会があると思えてきた
でも、自分にも波が大きくあるけど軸ができた
しんどいこともあるけど、すべては捉え方だと思っている


発達障害との付き合い方
・工夫、壁にぶちあたった時に常に考えていくようにしている。どんなことでもメモを書く、習慣化するようにしている。定型人に比べてストレスにさらされやすいので

・自分軸を持つこと、定型人から「これは違うよ」といわれることもあるけど、周りに合わせるばかりでモヤモヤすることは選ばない。自分の心に聞いてみてワクワクすることは行っている。
仕事になれば、郷に入れば郷に従う感じで「定型人のほうに合わせる」ことも大切で誰かに迷惑をかけたりするならば、自分を守るためには異文化交流で外国に住んでいるという感覚も大切

・人間関係のこと、自分が思ったことを「ポン」と話し過ぎてトラブルになることもある。なるべく慎重にもやもやはするけど引き受けて、相手がどう思うかを勉強している。これは実際に試すしかない。

・薬について、ストラテラを飲んでいる。吐き気の副作用もある。活性化したときは眠れなくなるので、うまく使っている。気になることはクリニックに言ったり相談窓口で話すこともある


日々日々葛藤している。悩むことも多い。生きづらいことを抱えているけど
捉え方を変えるようにしている


これからの目標
企業も障害枠で人を雇っているけど、的外れなところもある気がする
当事者から声を挙げていきたい。発信を続けていきたい
スイミーのごとく、小さな魚が集まって大きなことのきっかけになれば



吉濱ツトムさんのHP

https://yoshihama-tsutomu.com/message/


体験談音声・前半

https://stand.fm/episodes/62d03198cd51733c677065d8

体験談音声・後半

https://stand.fm/episodes/62d03278f35042bb14b69dd6


あやかさんyoutube

https://www.youtube.com/channel/UCfYI0kjoCmmXDIZ50TveTKA



昨日は福祉講座のカリキュラムの中で、マトさん(ADHD当事者でもあり、訪問看護ステーションで作業療法士をされている)に特性との付き合い方や訪問看護について伺いました。


ご本人さんにも承諾をいただき、アップさせていただきます。

以下、エピソードです

 僕はいわゆる進学校に通っていた。ぎりぎりまで頑張っていたが、爆発する感じで高校3年生の夏にやめた。神経症的な症状も出て家庭内暴力なんかもあった。最終的には僕だけが家に残った。自分探しをするために大学に進学するもこれも中退。引きこもったり自問自答の日々もあったりしたが、22歳の時に好きな女性と付き合うようになり、どうやって稼いでいくかについていろいろと考えた。問題なく取り組めたバイトもあったが、スシローでバイトをした時にミスが多く、うまくいかなかった。自分でも少し知識があったがその時はADHD的な特性であることはなかなか認められなかった。


収入の安定を考えて、看護師になろうと思った。看護助手から看護師を目指せば、看護学校などの費用はある程度まかなえることを考えて看護助手になるもこれもミスが目立つ。この辺りから自分自身のADHD的な特性があることを認められるようになってきたと思う。


病棟の中で作業療法士の先生がお年寄りと手作業や音楽などをやっているところも見て。

『これならば速さにとらわれずリカバリーしながらできる』と思い、26歳頃だったと思うけどお金を借りて、作業療法士の学校に入学した。きっちりと授業に出るタイプではなかったけど課題などの範囲を聞いて取り組んだり、提出物などの小さなメモを持ち歩き、そこに書き込んだ。今まで神経症的な症状で苦しんできたところもあったが、今回は自分で決めたことや失敗できないという思いがADHD的な「ミスをしやすい」「先送り癖」ではなく、神経症的なところがバランスよく働き、卒業して資格を取ることができた


精神科の作業療法士になろうと思ったが、体をみれる作業療法士になりたいと思って、まずは一般科の病院や社会福祉法人で勤めた。GH(グループホーム)の勤務時「内服の補助・薬の管理」を忘れそうになるが、この仕事はここがポイントと思ったことは抜けてはまずいと思い工夫した。どの仕事でも「絶対にきっちり」と「そこまできっちりでなくてもいい」みたいなところがあるので、意識して取り組むようになった。そうすれば大体の仕事はうまくいくと気が付けた。


そこからも紆余曲折有。発達障害の2次障害的にガンにもなった。トイレの近くでしか過ごせないこともあったが、だんだんと回復していた。今は就労移行の週5日で通っている方の中の一番下くらいの体力ですと笑って答えてくれる。この時も稼がないとだめだけど、体力もない。効率よく働くことや年金なども含めて考えることが増えた。


今の仕事は訪問看護ステーションで勤務している。東は尼崎、西は三宮くらいまでの方をフォローアップしている。


医療行為だけでなく、その人に必要なことであれば学校に掛け合い配慮事項を求めたりしていた。無料でしていたので今後は福祉事業所との連携にて実施している


転職等の相談の時には就労移行などを使えないケースなどでは、訪問しながらやれるサポートをやっていった。やりがいもあるけど移動の距離も有、できることの限界も感じている。発達障害のあるお子さんの育児を一緒にお母さんとやっているような時もある。相手に合わせて取り組むことでやりがいも感じている。


自分自身もAC依存症などの自助会、発達障害などのグループにも参加することが多かったので、GAGAムーンという団体で自分でも行っている。月末当たりの金曜の夜が多く、西宮の福祉センターなどを使うことが多かったが、コロナ禍になりzoomを使ったり最近はTwitterのスペースを使ことが増えた。


年に1~2回、しあわせの村でキャンプみたいなこともやっている。BBQや泊って過ごすことなんかも企画している。コロナが落ち着いていれば今年もGWくらいに実施できればと思っている


マトさん、Twitter

https://twitter.com/masa0929mato

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